カレンダーガール

それはハッカ、これはにっき

明日への記憶

  昨日は実験後泥のように眠った。途中喉が渇いて目が覚め、水を飲んだあとまた眠った。それでも朝はいつもの時間に目覚めた。

 

 

  実験自体は嫌いではない。むしろ楽しい。でもよくよく考えると、実験して何か分かるのが楽しいというより、班員と普段やらない非日常なことをするのを楽しんでいるのかもしれない、と思った。今は高校レベルの実験をひたすら精度をあげてやる期間だから実験自体に面白みを感じられないのかもしれないが。

 

  

  昨日の滴定実験では、ガラス球ビュレットを使って延々と滴定していたので、最後のほうは右手の指先がぶるぶる震えていた。終わって、自転車の鍵を差し込むときもぶるぶるしたし、今日も字を書くのが辛かった。ガラス球ビュレットは、かなり指先に力を込めないと動かないくせに、加減を間違えると一気に滴下される厄介者だ。結局、5時間実験していた。昨日は避けようのない体調不良の中、ほとんど立ちっぱなしで延々とやっていたせいか、途中声が疲れてる、顔が死んでると何人にも言われた。その分、終わった時の達成感は人一倍だった。前述したように、今は訓練期間なのにこの有様で先が思いやられる。

 

 

 

  打って変わって、今日は読書デイだった。久しぶりに没頭して、ジャンルの違う本を2冊読んだ。やっぱり本はいい。

  1冊目は以前読んでいたシリーズの続編だったのだが、鉄板といえば鉄板な、それでもやっぱり読み終わってから読み返すような幸せな終わり方だった。2冊目はすすめられて読んだものだったが、とても良かった。うまくは言い表せない孤独や切なさ、その裏表の幸せが消えてうまれて。そこを切り取った話だった。加えて、普段は読んだり読まなかったりのあとがきが良かった。なるほど、私も感受性が高い人間なのかもしれない。なんとなく、同じ部類の人が書いていた気がした。それは確かにかなりの傲慢な考えなのだけれども。

 

 

 

 

  ジャンルやつくり手・演じ手を問わず、美しい踊り、曲、小説や絵画などに出会うと、誰かに話したいような、いや黙っておきたいような、まるで秘密の宝物を手に入れた気分になる。何だっていいから、死ぬまでに誰かの心に寄り添えるようなものが出来たら、私ならそれだけで成仏出来そうである。

 

 

  そういえば去年の5月以降、美術館に足を運んでいない。昔はよく行っていたのに。近々の週末にでも何処かの美術館に行きたい。

 

 

 

"俺は振り向いた夢の中?  思い出のかけらひとつもなく  立ち尽くす俺が窓に映っている"

Hello

  私は割と、いわゆる"本当の自分"とかの類には懐疑的である。どうせいつも言いたいことや本音ばかり言える訳ではないし、こんなの本当の自分じゃない!っていやいや、自分は自分でしょって思ってしまう。周囲の環境に起因していて、そしてその環境は選べなかったとしても、そこでのいくつかの選択肢のうち、その偽りや仮面を被ることを選択するのも最終的には自分の意思であるはずである。もちろん、例外はつきものだけれど。

 

  そんなものだから、性格診断、深層心理そして占いなどは、合っているなと思ったらふーん、違っているなと思ったらほーん、という感じに流している。本当の自分、とかへーって感じである。でも最近は、自分の探しの旅とか言って、すべてを投げ出してどこか遠くへ行きたいなとよく考える。ハチミツとクローバーの中の竹本くんのように、ママチャリだけで駆け出したい。ヒッチハイクでもいい。何も考えずに、誰も自分を知らないところに行ってみたい。

 

 

  話が逸れてしまった。実は、彷徨える子羊オブザイヤーだったこの春、はじめて占ってもらいに行った。今までお金を払う価値を感じられなかったし、占ってもらったところで信じるかどうかも分からないし...と行く理由が見当たらなかった。だけども、出会いは突然。時間を持て余していたところ、とあるモールで占いの看板を掲げたおばさまと会ってしまったのである。

 

  尻切れトンボで申し訳ないがだいぶ眠くて頭がまわらないのでこのあたりにしておく。

  また、気が向いた時か続きを促すコメントとか何がしかがあれば続きを書こうと思う。

 

 

 

 

 

"笑いたいときに笑えないし、眠りたいときに眠れないよ。  遊びたいときに悩んじゃうし、叶わない夢も叶えたいよ。 青春の最中は前をじっと見つめていてよ。  運命も運勢も多分きっと当たってないよ。"

 

セントレイ

  昨日は学校はじまりの日だったが、2限からだし2コマだし特に何もなかった。

 

  休み時間、とある方のツイキャスを聞いていた。廃人だ。ダメウーマン、と思いながらイヤホンを耳につけた。とはいえ、ワ◯ン◯ン大学大学院で今現在研究されている方の生の声が聞けるのである。便利な世の中になったもんだ。ものは使いよう、そしてうまく使えているはずだ、と思いながら聞いていた。

 

  主に中高時代から自身の半生を振り返られていたのだが、話を聞く限りなかなか苦労された方であった。老害老害、と本人はおっしゃっていたが、聞いている側としてはとてもおもしろかった。割と事細かに経緯やその時の心境を語って下さったのだ。今は世間でも認知されるような方でも悶々とした学生時代を過ごされていた、というような話を本人の口から聞くと、かなり意外に思いつつもなんだか少し安心した。

 

 

 

  いつも午前一時過ぎと三時過ぎに表をトラックが通るのだが、今日はあいにくその音に起こされてしまった。眠い。午前の二コマだけなので授業は大丈夫だと思うが、夕方約束があるのでそれが少し心配。だけど未明の頃のひんやりした空気と自分だけが起きているような錯覚は嫌いではない。空が明けていく様も好きである。悪くない目覚めだ。

 

 

 

 

"僕は行く  夜中を目で追い続けて  淋しくなる月を抜けて"

欠けボタンの浜

  今日で連休も終わりである。去年よりは充実していた、と思う。

 

 

 

  帰省したときに、お前の将来なんかたかが知れてる、と親に言われたのが心に残っている。赤ちゃんは無限の可能性を秘めている、というような話をしていたときにさらりと言われた一言だった。別に何でもなれるとか思い上がっていたわけではない。ただ昔のように、もうなりたいものを両手の指を折って話すような歳ではないのだなぁ、なんて実感してしまった。なりたいものではなく、なれるものにしかなることは出来ないのかもしれない。もうそういうことを考えなければならぬのである。何が出来ると言われると何も出来やしないし、仕送りなしには生活出来ぬ身である。考え出すとすっかり暗い気分になってしまった。

 

  今にはじまったことではなく、春から、いやもしかするとお前の輝きはもうないなどと言われたあの日からかもしれない、何となく以前のような無鉄砲な自信は段々喪失しているように思える。歳といえばそれまでだ。物事を知れば知るほど自らの不甲斐なさが染みる。

 

  とまぁ、下宿先に戻ると大抵一人だし頭の中はジ・エンドオブザ・ワールドみたいなモードに入って自信の類はどっか行っちゃったりするわけである。

 

  でも先日思ったのが、あまりに自信を失くしてもいけないということだ。こう、会える日を楽しみに頑張ります!なんて言ってくれる子もいるわけだし、そうやってちょっとでも頼ったり信頼してくれてる人たちに失礼ではないのかと。過去の自分を評価してくれているだけだとしても。弱みを見せたくないとかそういう話ではなく、単純に度を越して自分を貶め批判するだけで傷ついたりそのふりをするのは良くない、ということである。

 

  結局、会いたいとか言われるとわーい!うーれしー!!私も頑張る!!なんてことになり、火曜日の某ナクションのライブ視聴は消えてしまった。残念。しかし女の子とのディナーには勝てない。おばさんなので会いたいです!なんて言われたらほいほい行く。一応言っとくとその気はない。でも普通に嬉しいことないですか?

 

 

 

  何が言いたいかよく分からなくなってしまった。つまり、あまり自信を失くしすぎるな、という自戒である。何処へも行けないなら開き直って何も考えずに羽根を伸ばして、手も足も伸ばしてしまえ、と思う。...まぁ実際は明日からも端の席にこっそり座っているのだろうが。

 

  今日は星を観に行きそれでいろいろ思い出したこともあったのだが、それはまた明日にでも。

 

  明日からまた学校である。
  夏休みまで、試験を挟む長丁場であるが頑張ろう。

 

PS.タイトル曲は歌詞が通して逸脱なので抜き出せなかった。原曲もアジカンのカバーも良いので気が向いたら検索して一聴をば。

Idaho/アイダホ

  帰省も終わり今は下宿先である。いろんな人と久しぶりに会えた有意義な帰省だった。

 

  髪も切りに行った。地元で小さい時から切ってもらっていた方が、春に独立して美容院を開いており、夏ぶりにその方に切ってもらった。

  90歳の祖父の見舞いにも行った。ダジャレも飛ばすし元気そうで一安心。しかし、そこでちょっと漫画のような間抜けなエピソードが。

 

  1日にお見舞いに行き、「これつまらないものだけど...」と手土産を渡そうと紙袋の中を覗くと...。ない。入れたはずの抹茶わらび餅がない。紙袋の中にビニール袋があるだけ。「ごめん、家に忘れたみたい...」私が祖父に会いたいと言い、連れて来てもらったのに手土産を忘れてしまった。ちょっとあんたそれはないわよ、どういうこと?!と笑いながらも険悪ムードになっていく母。呆れて何も言わない父。祖父が「〇〇(私)は明日もワシに会おうと思うて忘れて来たんじゃ。そんな言うてやるなや。」と取り持ってくれたおかげでその場はおさまった。というわけで、その翌日も祖父に会いに行った。その日は役場の方が来る予定だったのだが、平日で立ち会える者がおらず困っていたそうなので、私がお見舞いも兼ねて立ち会うことになり結果オーライ(?)となった。おじいちゃん子の私も祖父に二度も会えて満足。

 

  加えて生後1ヶ月の赤ちゃんがかわいすぎた。フラッシュと音を消してたくさん写真を撮った。お風呂に入るときのセクシーショットも撮ってしまった。門外不出である。祖父が退院すると、0歳と90歳が数ヶ月同じ屋根の下で過ごすことになるそうである。感慨深い。

 

  他にもいろんなところへ行きいろんな人と会った。

 

 

  翻って今日は引きこもっていた。帰省の時はかなりはしゃいで食べてあちこち行っていたし、それなりに疲れていたようである。外に出る気も起きなかった。

  何をしていたかというとのんびりとストレッチをし、好きな歌詞を延々写経していた。実家に戻ったときに、好きな歌詞を書き留めていた歌詞ノートを発掘し、久しぶりにやってみたくなったのだ。確か、ロッキンオンジャパンのライターを見習ってはじめた気がする。

 

  実際書いてみるとまず、自分の字の汚さに嫌気がさした。が、そのうちそれにも慣れて詞の良さを実感する。何となく聞き流していたところも浮き彫りになり、全体像が見える。音にもあってメロディーもいいのは勿論のこと、単体で抜き出しても味わい深い詞は素晴らしい。

 

 

  その一つを有名であるものからあげると、「雨は止んだよ  傘を閉じる手が鈍く悴んで」というのがある。雨が止むと、たいてい虹がかかっていたりそれを"君"に伝えたくなったり、というところだが、この詞にはそんな幸福感はない。ふと見上げて虹を見つけたりしない。雨で冷たくなった傘を自分で閉じるのだ。

 

 

 

  側からみるとそれ楽しい?と聞かれるだろうがとても楽しい。あと、逆立ちの練習もした。三点倒立の段階できつい。バランス感覚は悪くないほうだと思うのだがどうしても出来ない。誰かアドバイスを下さい。

 

  明日が最後の休みである。今日は夜更かしでもして休みを満喫するか、と思っているが既に少し眠い。みずがめ座の流星群が見えるらしいのでなんとか起きていたいところだ。

 

 

"小指の先で君の影が脈打ったり  閉じた瞼の裏で闇が這いつくばったり  まだ置き去りの波打つような後悔たち  また取り戻すために今を積み上げたい"

Disaster of Youth

  今日はゴールデンな一日だった。

 

  昨晩、一度話してみたかった人と日を跨いで割と長い時間話した。何となく空気や相槌の間などが近かった(気がする)のではじめから話しやすかったし楽しかった。話し終え少ししてから眠りについた。

 

 

  特に予定もなかったので目覚ましはかけていなかったが、カーテンが少し開いていたのでそこからの日の光で目が覚めた。ストレスのない、理想的な目覚めである。適当に朝ごはんを準備して食べたあとは、音楽をかけて聞いていた。実家に帰って思い出したのだが、我が家はいつも音楽がかかっていた。電話口の相手の声が聞き取れないほどの大音量で。試しに下宿先の外で騒いでいる音と、実家の家の中で流されている音量を録音したものを比較して聞いてみると、明らかに後者の方が大きい。ずっと当たり前であったから、BGM程度にしか思っていなかったのだろう。

 

 

 

  暇つぶしがてらCDの枚数を数えてみた。おおよそだが、私の所有枚数は450枚程度、両親あわせての所有枚数は1200枚、レコード150枚程度であった。普通の人よりは多いのではないかと思う。毎日120円の素うどんを食べ続け昼食代を浮かせていたのである、その賜物だ。しかし案外と少なく、今まで盛った枚数を教えていたことになってしまった。

 

 

  そんな風にぼんやりと過ごしながらずっと音楽をかけていた。アジカン、The SALOVERS、a flood of circleGorillazなどである。一度とことん度を越して好きになったものは、いつ聞いても好きだし飽きることはない。特に中高時代狂ったように聞いていたものには、(実際友人に引かれそうになるほど聞いていたし、親にオーディオ一式取り上げられたこともあった)自身の価値観に少なくない影響を受けた。今になってこんなことなのかと解釈が変わることも多々あるが、そんな風に難しく考えなくても流れてくる音楽は素晴らしいし、外は雲ひとつない晴天である。

 

 

  小6から愛用している腕時計を修理に出しているのもあり、今は時間にいつもより鈍感になっているのかもしれない。  もう5時過ぎの夕方である。村上春樹の登場人物なら、聞いている音楽はレコードだし、ここらあたりでクラッカーとウイスキーが出てくるのだろうが、あいにくそんな気配はない。騎士団長殺し、個人的には海辺のカフカ1Q84が混ざった印象を受けた。続編を待つ。

 

 

  久しぶりに何にも考えずにのんびり出来た気がする。いい一日だった。まだ夕方だけど。

 

 

 

"少年は大志を抱きすぎて死んだ  そして生まれ変わるのさ  青春の向こう側で  いつか待ち合わせをしよう  恋すらも忘れるほどに  ヤバい速度でぶっ飛ばしたい"

幸福論

  一昨日は徹夜で部屋の掃除もとい断捨離をした。めちゃくちゃ捨てた。受験関連のものも入学当初のものも。最後のほうは今まで使っていた100均の筆箱も捨ててた。何か大事なものも捨てたかもしれぬ。朝日があたるすっきりとした部屋を見ると、得もしれぬ達成感を得た。

 

  と、その後昨日帰省して今に至るわけである。(ここまで書いていた)

 

  本当は、祖父のお見舞いに行った話とその時思ったこと、久しぶりにゆっくり実家に帰ってきて今思うこと、姉妹で歩いていて私が妹に見られた話、など書きたいことは山々だが、需要もないであろう。

 

 

  ただ今私が思うのはただ一つである。

 

  赤ちゃんは可愛い。

 

 

 

  これだけである。いや少子化とかちょっとよくわからない。あんなに可愛いのに???なんで???実際問題、育てるとなれば、それはそれは苦労するであろう。でも泣いても笑っても可愛い。

 

  本当は明日帰る予定だったが、一日滞在を延長して、明日は赤ちゃんを愛でに行くことにした。メロメロである。祖父となった従兄弟の父も相当だが、私も相当メロメロである。布に包まれて赤ちゃんの姿がまったく見えない、その布まで可愛く見えてきた。二人でメロメロ同盟を組む一歩手前だ。

 

  可愛いは正義。赤ちゃんの可愛さを伝えたいが、ここに記すには余白が狭すぎる。

 

 

 

 

 

追記:幸福論は、出産後子供が数々の重病を患い、人の比じゃなく子育てが大変だった母が子育て中に聞いていた曲らしい。某SNSによって思い出したのも、初めて赤ちゃんを見て触れたのも今日であったのでなんだか不思議な縁を感じた。

 

"君が其処で生きてるという真実だけで幸福なのです"