カレンダーガール

それはハッカ、これはにっき

What'bout my star?

唐突だが、昔このブログをほぼ同時期にたてた友達が投稿しているのを読んでいたく感動し、私もつらつらと今年を振り返ってみようと思った。書くことで過去の、ある程度消化したものにしたいという気持ちもある。

 

2020年は変化の年、とは言わずもがなである。ただ、私はこの春から学位と大学を変更したこともあり、連続的なものが途切れたというより出鼻を挫かれたという印象だった。でも世の中の変化については巷で語り尽くされているし、そんな変化よりも衝撃だった個人的な出来事について書こうと思う。

 

秋口に母方の祖父が亡くなった。

二等親以内が亡くなった経験ははじめてで、思えば二十年ちょっと「人が死ぬ」という経験とはほぼ無縁に生きてきた。

 

もう少しドラマ的な、予感や第六感が働くものかと思っていたが現実はそうではないようだ。その日の朝、珍しく母方の祖母から「も」と一言だけLINEが送られていたが、それは「もろっこ」の「も」だったらしい。

学校に持っていく弁当用のスープを温めている9時前に母から電話がかかってきて、火を止めて出ようとしたら着信が切れた。入れ違いに妹から電話がかかってきた。「おじいちゃんが亡くなったんよ。なんかね、とてもつめたくて……」一言二言話して母と連絡をとる。すぐ帰る予定で話していたが10分後くらいに追加で連絡があり、「コロナが心配だからあなたはお通夜とかお葬式に参加できるかわからない」「今帰ってきても何も出来ないしまたあとで」という流れになり、結局夕方に帰ることで話がまとまった。

ところでその日は週に一度のzoom 輪読会の日で、朝10時から輪読があり私も毎回担当していた。とりあえずやることもないし頭もこんがらがっていたので輪読会に参加した。少し泣いて鼻をすすっていたので、「風邪?」と画面越しに心配してもらった。生体内の分子についての教科書を読んでいたのだが、祖父の体内ではこういう活動すべてがとまったのだと考えていた。この章を読むのはきつかった。

 

京都駅で、手ぶらで帰るのも……と思い八ツ橋とかお菓子をいくつか購入して新幹線に乗る。新幹線内では考えることがなかった。いつも本を持ち歩いているのだが、文字はすべてただの紙上のインクで意味をなさず、忍ぶものなど何もない高速で飛びゆく風景を眺めても、まぶたを閉じても、涙が流れていた。泣きじゃくることはなく、ただとうとうと。

イヤホンからはずっとマクロスFの「What’bout my star?@Formo」が流れていた。特に思い出がある曲ではない。その逆で思い出をつけようとして聞いていた。印象的な出来事があったときに聞いていた一曲を覚えていることがあると思うが、この時の私はそうしたくて、つまりこの新幹線内でのやるせなせと何かを結び付けたくてこの一曲をずっと聞いていた。他の感情とまざって濁らないように、この曲を聞く時だけは忘れないでいられるように。

私の頭の中では常に雑多な情報がひっきりなしに飛び回っていて、何かを考えていないと何を思えばいいのかわからず、なるべく遠いものを考えようと思った。「とてもつめたくて……」という妹の言葉がひっかかり、そこから分子運動論それから統計力学について脳内でなぞっていた。学問は人の憶測や感情と切り離された体系化されたもので良かった、何もなくてもなぞれる程度に勉強していて良かったと思った。と同時に原理ばかりを理解したところで何も変わりはしないのだとさめざめとした感情を抱く。そして新幹線は定刻通りに駅に停まったり通過したりして故郷が近づく。『生物と無生物のあいだ』で確か「生きている限り生体内では吸収と発熱が平衡を目指してせめぎあっていて、死こそ活動をやめた平衡状態なのだ」そんな記述があったように思う。ああどんな理論も到達を目指す平衡点に達したのだ。ごちゃごちゃした頭を黙らせて駅のホームに降りた。

 

そこからの行動は省く。結論、コロナ対策のため私はお通夜にもお葬式にも参列せず、お通夜の晩葬儀をとり行う会場で一泊し、そこでお別れとなった。お通夜の時間は一人で留守番をしていた。夕飯はスーパーのお寿司だった。

試着したとき以来に喪服に袖を通す。これから何度着ることになるのだろう。真珠のネックレスもはじめて身に着ける。祖母が成人祝いに買っておいてくれたものだ。手持ちの鞄に数珠とハンカチを入れる。靴を持って帰るのを忘れたので祖母の靴を借りる。近くのイオンモールに行くときにいつも横切っていた会館にはじめて足を踏み入れた。

棺におさまった祖父は安らかで、薄化粧もよくわからなかった。妹が言ったように冷たいかもわからない。「剃ったのに髭がのびている」と妹が目を潤ませる。「起きるなら今だよ、もう焼かれちゃうよって思うよね」という言葉に「うん」とうなずく。見る限り何もわからなかった。生と死の境目はこんなにも曖昧なのだと思っていた。それは私が看取っていないからかもしれない。息を引き取る瞬間を見ていたならば、私はもう少し実感をもてたのだろうか。何度も棺のそばに行き、顔を眺めた。少し目が潤んだ程度であまり泣けなかった。「死」というわからないものより先に実体として祖父がまだそこにいたからかもしれない。花に囲まれて目を閉じたままの姿は本当に安らかだった。手折られた花も祖父も何一つ生きてはいないのに、とても安らかだった。

ただ0、無になるのだと感じた。もう喜ぶことも楽しいこともないけれど、出来なくなることに失望することもない、苦しいことは何一つ起きないのだと納得しようとした。「安らかにお眠りください」この定型文の意味を理解する。もう、波はなく平衡に達した、安定的な安らかな眠り。

 

翌朝の9時頃、お葬式準備にやってきた親戚と入れ替わりに会館を去り、お葬式の時間も家で留守番をしていた。葬儀場で祖父が焼かれているのに私がこうして椅子に座っているように、きっとこれからの日々が進んでいくのだなどと取り止めもなく考えていた。祖父がいなくなっても続いていく日常が恨めしいと思った。週が明けて月曜日、普通に登校する自分も訳がわからなかった。人に理解されたくもなく、学校ではお通夜にもお葬式にも行けなかったとだけ話した。友人にもほぼ話していない。一人だけ気づいてくれた子がいたがだいぶ気を遣わせたと思うし情けない。誰でもよかったわけでもなく、相手が特段おそらく今一番気を許している人だっただからだろう、話すことで栓が抜けたような軽さを感じたが、例えばよく言うように悲しみを半分こするとして、関係のない悲しみを垣間見てしまった側は、急にその感情を手渡されてどうするというのだろう。

 

祖父は数年前から入退院を繰り返し、もう何年かは家に帰っていなかった。だから、毎回帰省するときは「もう私のことは覚えていないかもしれない」「もう最後かもしれない」という思いを抱えながら会っていた。だからだろうか、断絶というより連綿とした別れで悲しみの色合いは淡い。もう一つ、祖父自身が「はやくいにたいのぅ」とこぼしていたことがあるのかも、と思う。「ええのぅ、うは。わしはもう20にはなれんからのぅ」と昨年の夏に見舞いに行ったとき祖父はこぼしていた。(私の名前をもじって祖父から「う」と呼ばれることが結構あった)そんな冗談を言う元気があるなら大丈夫だと思って当時は聞いていた。でも、出来たことが出来なくなっていく、それでも意識はあって生き続けるのはどんな気分なのだろう。祖父は末っ子だし戦争で生き残った人も多くはないから、ずっと見送る側だったのだろう。

「大往生でよかったねぇ」と皆言っていたし私もそう思うのだが、本人と同じくらい周りの人間も「よかった」のだろう。もし本人にやり残したことがあるなんてことがわかっていたらその無念さに思いを馳せずにはいられないから、何かを残されることなく見送るだけでいいのは「よかった」のだと今は思う。

 

自分に近しい人がいなくなるたび、身体のどこかが欠けていけばいいのにと半ば本気で思った。見るからにわかるように、常に痛みと欠損を伴って忘れたりしないように。そうして、近しい人や一緒にいたい人が消えた世界で生きていけなくなればいい、一緒に消えればいい。長生きすると、一緒に過ごしてきた人はどんどんいなくなっていく。きっと耐えられないし耐える意味などないようにいまは思う。

 

思い出は消えない、けれど私と一緒に思い返してくれる当の本人はいなくなってしまった。こうして少しずつ遠のいていけば誰かをあまり悲しませずにいられるのかもしれないな、なんて思いもちらとよぎるが、生きている/いないの境界線の強さはその不可逆過程が異なる相に到達してからわかる。死んでから故人を忍ぶことは大事な、というかせずにはいられないことだ。しかし「××だったのに」なんていうのはいささかたられば論に偏りすぎているのではないかという思いが強くなった。その世界が想像できないという点では死というのはSF作品よりもっとフィクション的で、だからあとからあとから付け足すのは簡単だ。

 

天国で見守っているかもしれないけれど、私にはわからない。意思疎通が一方向になる前に伝えておかねばならぬし、姿を見せておかねばならない。祖父は院進学を応援してくれていたので、昨年の夏には第一志望に合格したことを伝えられて嬉しかった。しかし最初は、おしゃべりな祖父が大学院名を自慢げにホームの他の老人に言いふらしてはいけないから、と大学名は伏せていたのに、冬になってから「ほら教えてあげて」と言われた。元気がなくなっていたのはわかった。

 

小さなものしか食べなかった幼い頃の私にとって祖父が好きだった塩ピーナッツはちょうどいい大きさだったのだろう、私も好んで食べていた記憶があるしその光景を切り取った写真も残っている。よく裏返した蓋の上に取り分けてくれた。

私たち姉妹は地元の学校に通っていなかったので、公園に行っても地元の子に遊具を取られっぱなしで遊ぶことが出来なかった。庭の砂場で遊びながら「すべり台とブランコで遊びたい」と毎日言っていたら、庭にすべり台とブランコをつくってくれた。ささくれができたら遊具ををやすりで削ってくれた。逆上がりに苦戦している話をすると、鉄棒もつくってくれた。

勝手に百日紅に上って落ちてかなり大振りの枝を折ったときも、怪我の心配をしてくれ「切ろうと思っとった枝じゃけぇ手間が省けたの」と言ってくれたこと。その枝は絶対切ろうと思うような位置になかったこと。

毎年出演していた公民館のリサイタルに盆栽を出品したついでにといって毎回見に来てくれたこと。

私がお見舞いに行くことがわかると、祖母(妻)か叔母(娘)に「テレビカードを買うから金をくれ」と言って、4、5回折りたたんだお札を手わたしてくれていたこと。

そういう思い出を何か一言にまとめることはできない。木漏れ日のように揺らめいて常々かたちを変えた優しさのことを、もうあんなことがあったねと言う相手はいなくなったけど、それでも覚えていたい。すこしずつこうした思い出も薄くなり透き通り美化され、あるいはガラスの破片のようにふいにいつかどこかを切りつけるものになるとしても。いないものに対して意味があるのかないのか、ないとしたってどうでもよくて、私は忘れない自分でいたいと思う。

 

だいたい3000〜5000字近く書くと、なんらかの結論やまとめに達することができるのが常なのだが、私はいまだにどこで筆をおけばいいのかわからない。もうすべては後日談。思い出で締めればよいのか決意で締めればよいのか、わからない。まだ何もわかっていないのかもしれない。まだまだ書き続けることはできる。でも/だから、ここで筆をおこうと思う。

Blood&Bones

久しぶりにブログを見てみたら、モンサンミッシェルのオムレツを食べたくなった。オムレツって意外とつくるのムズカシイ...。

 

個人的に5.6月の初夏は好きな季節である。日差しが好きなのだ。暇さえあれば、いやなくても授業中だっていい、窓からぼっーと外を眺めてはきれいだなぁなんて思っている。とある有名人が「(5月の日差しは)反射光成分に緑がのっている」と表していたが、なるほどそんな光が降り注ぐ時期。晴れの間にたまに降る雨も乙なもの。日常も心なしかテンションは高く財布の紐もゆるく、「経験はお金に変えられないですよね!うんうん!!」と一人納得しながらチケットを買い、ライブに行っている。

 

というわけで、先日参戦してきたライブについて書こう。

5月16日(水)a food of circle~Here Is My Freedom Tour~VS the pillows@京都MUSE

 

と書いてもへ?って感じだと思うので説明すると、これはアルバムリリースツアーの対バン形式のライブである。対バン?へ?って感じだろうか。

対バンというのは2バンド以上が同じ公演で順々に演奏するライブの形式である。1バンドが演奏する→転換→次のバンドが演奏する→...→トリのバンドが演奏する、って感じでライブは進んで行く。今回は2バンドで先攻the pillows、後攻a flood of circle

「ライブ」というと思い浮かべるのは、レーザービームがビビビ!と放たれていたり銀テが舞っていたり、かもしれないけど、ライブハウスのライブはそんな華やかさは全くない。ステージに機材がドーン!と乗っていて、その(段差も30cm程度の)隔てたすぐ下の手すりの先がスタンディングエリアで観客の立ち位置なのである。そう、めちゃくちゃ距離が近い。

 

それではここからセトリを交えながら感想を...といきたいところだが、なかなか有名じゃないバンド同士なので詳細は省こう。と言いつつ少し雰囲気だけ書くと、入ったら2列目、最終的に押されまくって最前列にいて、もうもみくちゃ。後ろから人は飛んでくるわ、サビでマイクを投げ捨ててボーカルがダイブしてくるわで右目が腫れた(笑)。うーん、イッツオールライト!

 

そしてライブに参戦して考えたこと。

 

人生はクソゲーである。

よく「楽しそうだね!」と言われるし実際楽しんでいるとも思うのだが、やっぱり人生はクソゲーだと思う。ゲームなんてパックマンテトリスくらいしかしたことないけど。

「何回転んでも立ち上がれるから希望を持て」なんてことを言う人がいるが、ゲームオーバーしないことが希望だなんて誰が決めたのだろう。『どんなに戦っても 全部ムダなら 完璧なトドメを刺してくれ』(by a flood of circle「Rodeo Drive」)トドメを刺されないまま、傷だらけで生かされる。そう、好かれたって嫌われたって達成できなくたって誰かが死んだって、いつ来るかわからない終わりまで進んでいかなければならないのだ。もう終わったことにしたりなかったことにしてしまえば楽だし、諦めをつけることだって立派な決断の一つ。

だけど、メンバーが失踪しても脱退しても減っても、音楽性が変わっただのなんだのと叩かれたりしながら、そして私自身も一時期意識的に聞かなくなった、そんなバンドがまだ一度も止まらずに続けているという「続いている」ことそれ自体が、その存在が燃え上がった夜だった。京都の街中の片隅で、薄暗いライブハウスの中で燃えていた。

『生まれ変わるのさ 今日ここで変わるのさ 不可能の壁を壊し続けて』(by a flood of circle「New Tribe」)

こんなのダサいなと思う。人にすすめられるか?と問われたら私は万人にはすすめられないだろう。だけどどうしてか信じてしまう、拳をあげてしまう。それはきっと響かせる彼らが「ロックンロールバンド」だから。終わらないなら終わらせてしまえ?いやいや、終わらないから進んでいくしかないのだ。例え後戻りでもつま先は前に進むように向いてるらしい、心配いらないんだって。

一節に、メロディーに、たった数時間のライブに、とあるロックンロールバンドに、背を押されたら日々はなんとか乗り越えられてしまう。やっぱり、人生はクソゲーである。

 

"さあ行こう 俺たちが今 燃え上がるのは 生きてるから"

春の嵐

  絶望と希望が入り混じる春はいつも淡くてピンぼけだと思う。

  春の嵐が来てから春の嵐ばかり聞いている。

  かなり気に入っているのだが見かけないので自分の覚え書きのためにも全文書いてみる。

 

春の嵐a flood of circle

作詞:佐々木亮
作曲:佐々木亮

 

夜更けの雨はまるで
汚れた冬を洗い流していくようだ
どうか拭えない涙さえ洗い流しておくれ

 

嵐のように夜風がはしゃぎだす
花を蹴散らして 僕の街に来るらしい
でも嵐のように 君はなんか嬉しそうに
待ち焦がれてた 春を思い描いている

すべて吹き飛ばしてしまえ
春 君は残酷な春の中

 

嵐が来たら 悲しみも飛んでくかなんて
君は愚痴ってる 救いはないと僕は思う
でも嵐が来たら 傘もなく春を探す
風を集めて 竜巻台風どこだっていける

すべて吹き飛ばしてしまえ
春 君は冷酷な春の中

 

嵐の夜が過ぎても 冬の悲しみは消せないって
僕らは知っていたのに 救いの春を待ってしまう
何もかもが悲しみを抱いたまま
でも何もかもが明日を思い描いている

すべて吹き飛ばせなくても
春 僕の目の前の春をゆく
嵐の中で僕は踊る
嵐の中で君と踊る

 

雨は夜明けとともにあがって
朝日が木々を青くしていく
とうとう拭えなかった涙さえ包んでいく 春の光

春の嵐

  今日は髪を切ったあとに、中高の同級生で予備校を辞めて調理専門学校に通っていた子の卒業制作展に行ってきた。自分がこういう部類に疎いこともあり、あまり期待はしていなかった。そもそも、料理は食べるものなんじゃ...??展示では魅力も半減以下なのでは...と。しかしその思いは一足展示室に足を踏み入れると粉々になった。

 

  はじめに入ったのは製菓の展示。

  綺麗にカーブし光沢を放つ飴細工、カラフルなケーキ、本当に食べられるのか疑うようなキャラクターの数々...。製菓は華やかな機会に立ち会うことが多い故であろう、きらきらした幸せが部屋いっぱいに詰まっていた。

 

  次に和食、洋食、中華の展示コーナーへ。

  製菓はまだテレビで見たことがあるが、思えば食事の展示なんて見たことがなかったかもしれない。部屋に足を踏み入れると、私の中の「料理=食べ物」なんて等式は名もなき展示室で音もなくぶち壊された。コンセプトも様々で想像が作られた創造品。料理は表現だ、芸術だ。愛の言葉を何年も人々が探しているように、誰かを思い描き自分の技量を尽くしてつくられた料理が並んでいた。見るだけで伝わってくる。「香りをお楽しみください」とよく言われるが、目でも楽しめるものだったとは。いや、楽しいだけじゃない。迸る情熱を感じる、皿の向こうに誰かが見える。ああ、プロだなぁと思った。自分の自炊と比較するのもおこがましい話だが、自炊の向こうには誰の顔も見えない。だけど、並んだ作品の向こうにはきっと楽しみにしているであろう誰かの顔が見える。誰かのための料理である。

 

  ひと通り見てから学校を出て、私は二年間で何か得られたか自問自答せざるを得なかった。その後、先述した子とはまったく連絡をとっておらず特に仲が良かったわけでもないのだが、思わず感想を述べる旨のDMを送ってしまった。彼女は驚きながらも思いのほか喜んでくれた。今度はぜひ職場に来て!とのことだった。

 

 

 

  頑張んなきゃな、ととりあえず決意を新たにしてここに記している。髪切ったって変わりゃしないのだ。

 

 

"すべてを吹き飛ばせなくても 春  僕は目の前の春をゆく"

旅立ち前夜

今日は国公立二次試験前日である。

すなわち、私が仮面を脱ぎ捨てて一年なのだ。

 

昨年受験したことについて驚くほど後悔がない。落ちたら無駄だったなぁと思うとばかり思っていたのに。仕方ない奴だなぁと自分に苦笑するだけ。

 

夏を過ぎるまでは辛かった。毎週末鴨川を見に行き、日が沈んで水面が黒くなるまでカップルが等間隔に並ぶ川べりに座り込み、せせらぎと弾き語りのリュウジが歌う海岸通りを聞いていた。

 

今日22時前に鴨川を通り過ぎた。まだ冷たい風が吹く2月末。夏前にはたくさんいた浴衣の観光客なんていない季節。ふと橋の下を見下ろすと、リュウジが歌っていた。川べりは寒い、カップルなんていなくて「なんか下さい」と書かれた黄色い札だけがリュウジの横で揺れていた。もう歌い終わったあとだったのか、今日は海岸通りは聞けなかった。

もう川べりには下りなくていいかな。そんな気分だった。

 

それまで取り組んできたことに見切りをつけるのは時として受け入れられないものだ。いくら結果として提示されても。

多分春も夏も引きずっていたのだろう。だけど今はもう完全に私の番は終わったのだ。そう思えたことに少しほっとした。思えば2月24日が試験前日じゃなくて、ちゃんとその日だと捉えられたのは数年ぶりだ。

 

受験生に春が来るように祈りながらちょっとだけ一年前の自分に思いを馳せ、駅へと歩を進めた。一年前の決断が良かったのかはわからないけれど、純粋に日々を楽しめる今日へと確かに繋がっていたのだ、大げさにそんなことを思った。

 

 

"忘れやしない  捨てたりしない  迫りくる明日に何を見つける"

奇跡

  何とはなしにまた書いてみる。

  約3ヶ月ぶりである。例の通り日記はつけているのだが。

 

  学校がはじまった。

  図書館が閉鎖してしまった学校では一人になれる時間も場所もない。本が読めないのはかなり痛い。

  行き場を失った学生は食堂に雪崩れ込み、特に欲しくもないけれどジュースやお菓子を買って席についてだべる。今学期の食堂とコンビニは売上が伸びると私は踏んでいる。

 

  夏休み。もう終わってしまったけれど、今年はいろいろな所へ行き、中高時代の友人と会ってきた。青春18切符をまた使って今度は待ってくれる人がいない地に行ってみるのもいいかもしれない。

 

  最後の週末は、梅小路公園で開かれた京都音楽博覧会に行って来た。前日夜9時にチケットを取り翌日11時前には会場に到着、という思いつきもいいところの参戦。だがしかし、これが思いの外素晴らしかった。

  知らない良質の音楽が放たれていくのを聞きながら、芝生の上でカルビを食べたりモヒートを飲んだり。お酒が飲めて良かったなぁ、と思えた数少ない一コマだった。「みんな同じ空の下」なんて浮ついた台詞は苦手なのだが、国を越えた音楽を聞きながら、聞き入っている人、芝生に寝転んでまどろむ人、連れられて来たのであろうドラえもんを読んでいる子供...がいる。そういう風景を見ているとそんな言葉を少しだけ信じられるような、それほど満ち足りた空間だった。

  ちなみに今回のタイトルの「奇跡」は、その博覧会にて「くるり」がフルオーケストラと共に演奏し、私がいたく感動した曲。まさか聞けるなんて思っておらず、そして編曲も素晴らしく、こんなにいい曲だったのか、と会場で目頭を熱くした。その日から毎日聞いている。この奇跡、巷でよく聞く出会えた奇跡とかじゃなく、祈りに近い感情が歌われているところも素敵だと思う。

 

  平凡な毎日が幸せ。それはそうなのだが、まだ若いうちは少しくらい野心を持っていたいもの。秋はコマ数も少なく図書館も閉館で、下宿先で過ごすことが多くなりそうだが、何か馬鹿げた熱中できるものを見つけたい。そう思う今日この頃である。

 

 

"いつまでもそのままで 泣いたり笑ったりできるように

曇りがちなその空を一面晴れ間に出来るように"

  

アンダースタンド

  今日で上半期も終わり。

  と思ってなんとなく久しぶりにこれを書いているわけである。ブログのほうはあんまりであるが、何日かに一回は日記をつけている。読み返してみると非常に面白い。日記は感情の殴り書きで言葉が追いついていないのでとても見せられたものではないが。

 

  さて、上半期を振り返ってみるとなかなかに激動であった。何しろ冬には冷え切った部屋に籠ってひたすら塗りつぶしたり、試験に備えて徹夜したり、時間を計って赤本を解いたりしていたわけで。そこからなんだかんだと二回生になり今現在である。

 

  パラレルワールドなんてないので、どっちに転んだらどうなっていたかはわからない。なった側で頑張るしかないわけである。落ち込むこともあったけれど、割と元気になってきた。全ての傷口を縫合するのは時間である、と言ったのはかの夏目漱石であっただろうか。私ももうさすがに本調子である。

 

  5、6月は気候も良く好きな月なのだが、特に今年の6月はいろんな所へ行き、いろんな人に会えて本当に楽しかった。

 

  先日、中高からの夢(細やかで多分他の人にとってはものすごく下らないものだ)が3つ一気に叶ってしまった。その時からあの頃のことを思い出しがちなのだが、思っていたより大人にはなれていないし周りに適合も出来ていない。でも、中高時代の私が夢のような1日を運んでくれてきたように、今に意味が感じられなくとも真っ当していけばいつかはこの日々も意味を持つのかもしれない、そんな風に思っていたりする。今が無味乾燥とかそういうわけではない、充実してはいるのだが、このまま年月が過ぎ卒業して社会に出るのかと思うと一抹の不安を覚えるし、いつも何かやり残している気になる。

 

 

  いつかこんな日やブログを懐かしむのだろう。これがきっとモラトリアムってやつである。

 

 

  この間お酒を買う機会があったのだが、まだ年齢確認をされてしまった。私自身お酒はそこまで好きじゃないので、今日はこどもののみものを買ってきた。甘ったるさと感傷に浸って、また明日から切り替えて頑張りたい。とりあえず今週末は部屋掃除と試験対策を本格化させよう。

 

  では。

 

 

 

"軋んだその心、それアンダースタンド  歪んだ日の君を捨てないでよ"