カレンダーガール

それはハッカ、これはにっき

What'bout my star?

唐突だが、昔このブログをほぼ同時期にたてた友達が投稿しているのを読んでいたく感動し、私もつらつらと今年を振り返ってみようと思った。書くことで過去の、ある程度消化したものにしたいという気持ちもある。

 

2020年は変化の年、とは言わずもがなである。ただ、私はこの春から学位と大学を変更したこともあり、連続的なものが途切れたというより出鼻を挫かれたという印象だった。でも世の中の変化については巷で語り尽くされているし、そんな変化よりも衝撃だった個人的な出来事について書こうと思う。

 

秋口に母方の祖父が亡くなった。

二等親以内が亡くなった経験ははじめてで、思えば二十年ちょっと「人が死ぬ」という経験とはほぼ無縁に生きてきた。

 

もう少しドラマ的な、予感や第六感が働くものかと思っていたが現実はそうではないようだ。その日の朝、珍しく母方の祖母から「も」と一言だけLINEが送られていたが、それは「もろっこ」の「も」だったらしい。

学校に持っていく弁当用のスープを温めている9時前に母から電話がかかってきて、火を止めて出ようとしたら着信が切れた。入れ違いに妹から電話がかかってきた。「おじいちゃんが亡くなったんよ。なんかね、とてもつめたくて……」一言二言話して母と連絡をとる。すぐ帰る予定で話していたが10分後くらいに追加で連絡があり、「コロナが心配だからあなたはお通夜とかお葬式に参加できるかわからない」「今帰ってきても何も出来ないしまたあとで」という流れになり、結局夕方に帰ることで話がまとまった。

ところでその日は週に一度のzoom 輪読会の日で、朝10時から輪読があり私も毎回担当していた。とりあえずやることもないし頭もこんがらがっていたので輪読会に参加した。少し泣いて鼻をすすっていたので、「風邪?」と画面越しに心配してもらった。生体内の分子についての教科書を読んでいたのだが、祖父の体内ではこういう活動すべてがとまったのだと考えていた。この章を読むのはきつかった。

 

京都駅で、手ぶらで帰るのも……と思い八ツ橋とかお菓子をいくつか購入して新幹線に乗る。新幹線内では考えることがなかった。いつも本を持ち歩いているのだが、文字はすべてただの紙上のインクで意味をなさず、忍ぶものなど何もない高速で飛びゆく風景を眺めても、まぶたを閉じても、涙が流れていた。泣きじゃくることはなく、ただとうとうと。

イヤホンからはずっとマクロスFの「What’bout my star?@Formo」が流れていた。特に思い出がある曲ではない。その逆で思い出をつけようとして聞いていた。印象的な出来事があったときに聞いていた一曲を覚えていることがあると思うが、この時の私はそうしたくて、つまりこの新幹線内でのやるせなせと何かを結び付けたくてこの一曲をずっと聞いていた。他の感情とまざって濁らないように、この曲を聞く時だけは忘れないでいられるように。

私の頭の中では常に雑多な情報がひっきりなしに飛び回っていて、何かを考えていないと何を思えばいいのかわからず、なるべく遠いものを考えようと思った。「とてもつめたくて……」という妹の言葉がひっかかり、そこから分子運動論それから統計力学について脳内でなぞっていた。学問は人の憶測や感情と切り離された体系化されたもので良かった、何もなくてもなぞれる程度に勉強していて良かったと思った。と同時に原理ばかりを理解したところで何も変わりはしないのだとさめざめとした感情を抱く。そして新幹線は定刻通りに駅に停まったり通過したりして故郷が近づく。『生物と無生物のあいだ』で確か「生きている限り生体内では吸収と発熱が平衡を目指してせめぎあっていて、死こそ活動をやめた平衡状態なのだ」そんな記述があったように思う。ああどんな理論も到達を目指す平衡点に達したのだ。ごちゃごちゃした頭を黙らせて駅のホームに降りた。

 

そこからの行動は省く。結論、コロナ対策のため私はお通夜にもお葬式にも参列せず、お通夜の晩葬儀をとり行う会場で一泊し、そこでお別れとなった。お通夜の時間は一人で留守番をしていた。夕飯はスーパーのお寿司だった。

試着したとき以来に喪服に袖を通す。これから何度着ることになるのだろう。真珠のネックレスもはじめて身に着ける。祖母が成人祝いに買っておいてくれたものだ。手持ちの鞄に数珠とハンカチを入れる。靴を持って帰るのを忘れたので祖母の靴を借りる。近くのイオンモールに行くときにいつも横切っていた会館にはじめて足を踏み入れた。

棺におさまった祖父は安らかで、薄化粧もよくわからなかった。妹が言ったように冷たいかもわからない。「剃ったのに髭がのびている」と妹が目を潤ませる。「起きるなら今だよ、もう焼かれちゃうよって思うよね」という言葉に「うん」とうなずく。見る限り何もわからなかった。生と死の境目はこんなにも曖昧なのだと思っていた。それは私が看取っていないからかもしれない。息を引き取る瞬間を見ていたならば、私はもう少し実感をもてたのだろうか。何度も棺のそばに行き、顔を眺めた。少し目が潤んだ程度であまり泣けなかった。「死」というわからないものより先に実体として祖父がまだそこにいたからかもしれない。花に囲まれて目を閉じたままの姿は本当に安らかだった。手折られた花も祖父も何一つ生きてはいないのに、とても安らかだった。

ただ0、無になるのだと感じた。もう喜ぶことも楽しいこともないけれど、出来なくなることに失望することもない、苦しいことは何一つ起きないのだと納得しようとした。「安らかにお眠りください」この定型文の意味を理解する。もう、波はなく平衡に達した、安定的な安らかな眠り。

 

翌朝の9時頃、お葬式準備にやってきた親戚と入れ替わりに会館を去り、お葬式の時間も家で留守番をしていた。葬儀場で祖父が焼かれているのに私がこうして椅子に座っているように、きっとこれからの日々が進んでいくのだなどと取り止めもなく考えていた。祖父がいなくなっても続いていく日常が恨めしいと思った。週が明けて月曜日、普通に登校する自分も訳がわからなかった。人に理解されたくもなく、学校ではお通夜にもお葬式にも行けなかったとだけ話した。友人にもほぼ話していない。一人だけ気づいてくれた子がいたがだいぶ気を遣わせたと思うし情けない。誰でもよかったわけでもなく、相手が特段おそらく今一番気を許している人だっただからだろう、話すことで栓が抜けたような軽さを感じたが、例えばよく言うように悲しみを半分こするとして、関係のない悲しみを垣間見てしまった側は、急にその感情を手渡されてどうするというのだろう。

 

祖父は数年前から入退院を繰り返し、もう何年かは家に帰っていなかった。だから、毎回帰省するときは「もう私のことは覚えていないかもしれない」「もう最後かもしれない」という思いを抱えながら会っていた。だからだろうか、断絶というより連綿とした別れで悲しみの色合いは淡い。もう一つ、祖父自身が「はやくいにたいのぅ」とこぼしていたことがあるのかも、と思う。「ええのぅ、うは。わしはもう20にはなれんからのぅ」と昨年の夏に見舞いに行ったとき祖父はこぼしていた。(私の名前をもじって祖父から「う」と呼ばれることが結構あった)そんな冗談を言う元気があるなら大丈夫だと思って当時は聞いていた。でも、出来たことが出来なくなっていく、それでも意識はあって生き続けるのはどんな気分なのだろう。祖父は末っ子だし戦争で生き残った人も多くはないから、ずっと見送る側だったのだろう。

「大往生でよかったねぇ」と皆言っていたし私もそう思うのだが、本人と同じくらい周りの人間も「よかった」のだろう。もし本人にやり残したことがあるなんてことがわかっていたらその無念さに思いを馳せずにはいられないから、何かを残されることなく見送るだけでいいのは「よかった」のだと今は思う。

 

自分に近しい人がいなくなるたび、身体のどこかが欠けていけばいいのにと半ば本気で思った。見るからにわかるように、常に痛みと欠損を伴って忘れたりしないように。そうして、近しい人や一緒にいたい人が消えた世界で生きていけなくなればいい、一緒に消えればいい。長生きすると、一緒に過ごしてきた人はどんどんいなくなっていく。きっと耐えられないし耐える意味などないようにいまは思う。

 

思い出は消えない、けれど私と一緒に思い返してくれる当の本人はいなくなってしまった。こうして少しずつ遠のいていけば誰かをあまり悲しませずにいられるのかもしれないな、なんて思いもちらとよぎるが、生きている/いないの境界線の強さはその不可逆過程が異なる相に到達してからわかる。死んでから故人を忍ぶことは大事な、というかせずにはいられないことだ。しかし「××だったのに」なんていうのはいささかたられば論に偏りすぎているのではないかという思いが強くなった。その世界が想像できないという点では死というのはSF作品よりもっとフィクション的で、だからあとからあとから付け足すのは簡単だ。

 

天国で見守っているかもしれないけれど、私にはわからない。意思疎通が一方向になる前に伝えておかねばならぬし、姿を見せておかねばならない。祖父は院進学を応援してくれていたので、昨年の夏には第一志望に合格したことを伝えられて嬉しかった。しかし最初は、おしゃべりな祖父が大学院名を自慢げにホームの他の老人に言いふらしてはいけないから、と大学名は伏せていたのに、冬になってから「ほら教えてあげて」と言われた。元気がなくなっていたのはわかった。

 

小さなものしか食べなかった幼い頃の私にとって祖父が好きだった塩ピーナッツはちょうどいい大きさだったのだろう、私も好んで食べていた記憶があるしその光景を切り取った写真も残っている。よく裏返した蓋の上に取り分けてくれた。

私たち姉妹は地元の学校に通っていなかったので、公園に行っても地元の子に遊具を取られっぱなしで遊ぶことが出来なかった。庭の砂場で遊びながら「すべり台とブランコで遊びたい」と毎日言っていたら、庭にすべり台とブランコをつくってくれた。ささくれができたら遊具ををやすりで削ってくれた。逆上がりに苦戦している話をすると、鉄棒もつくってくれた。

勝手に百日紅に上って落ちてかなり大振りの枝を折ったときも、怪我の心配をしてくれ「切ろうと思っとった枝じゃけぇ手間が省けたの」と言ってくれたこと。その枝は絶対切ろうと思うような位置になかったこと。

毎年出演していた公民館のリサイタルに盆栽を出品したついでにといって毎回見に来てくれたこと。

私がお見舞いに行くことがわかると、祖母(妻)か叔母(娘)に「テレビカードを買うから金をくれ」と言って、4、5回折りたたんだお札を手わたしてくれていたこと。

そういう思い出を何か一言にまとめることはできない。木漏れ日のように揺らめいて常々かたちを変えた優しさのことを、もうあんなことがあったねと言う相手はいなくなったけど、それでも覚えていたい。すこしずつこうした思い出も薄くなり透き通り美化され、あるいはガラスの破片のようにふいにいつかどこかを切りつけるものになるとしても。いないものに対して意味があるのかないのか、ないとしたってどうでもよくて、私は忘れない自分でいたいと思う。

 

だいたい3000〜5000字近く書くと、なんらかの結論やまとめに達することができるのが常なのだが、私はいまだにどこで筆をおけばいいのかわからない。もうすべては後日談。思い出で締めればよいのか決意で締めればよいのか、わからない。まだ何もわかっていないのかもしれない。まだまだ書き続けることはできる。でも/だから、ここで筆をおこうと思う。