カレンダーガール

それはハッカ、これはにっき

Disaster of Youth

  今日はゴールデンな一日だった。

 

  昨晩、一度話してみたかった人と日を跨いで割と長い時間話した。何となく空気や相槌の間などが近かった(気がする)のではじめから話しやすかったし楽しかった。話し終え少ししてから眠りについた。

 

 

  特に予定もなかったので目覚ましはかけていなかったが、カーテンが少し開いていたのでそこからの日の光で目が覚めた。ストレスのない、理想的な目覚めである。適当に朝ごはんを準備して食べたあとは、音楽をかけて聞いていた。実家に帰って思い出したのだが、我が家はいつも音楽がかかっていた。電話口の相手の声が聞き取れないほどの大音量で。試しに下宿先の外で騒いでいる音と、実家の家の中で流されている音量を録音したものを比較して聞いてみると、明らかに後者の方が大きい。ずっと当たり前であったから、BGM程度にしか思っていなかったのだろう。

 

 

 

  暇つぶしがてらCDの枚数を数えてみた。おおよそだが、私の所有枚数は450枚程度、両親あわせての所有枚数は1200枚、レコード150枚程度であった。普通の人よりは多いのではないかと思う。毎日120円の素うどんを食べ続け昼食代を浮かせていたのである、その賜物だ。しかし案外と少なく、今まで盛った枚数を教えていたことになってしまった。

 

 

  そんな風にぼんやりと過ごしながらずっと音楽をかけていた。アジカン、The SALOVERS、a flood of circleGorillazなどである。一度とことん度を越して好きになったものは、いつ聞いても好きだし飽きることはない。特に中高時代狂ったように聞いていたものには、(実際友人に引かれそうになるほど聞いていたし、親にオーディオ一式取り上げられたこともあった)自身の価値観に少なくない影響を受けた。今になってこんなことなのかと解釈が変わることも多々あるが、そんな風に難しく考えなくても流れてくる音楽は素晴らしいし、外は雲ひとつない晴天である。

 

 

  小6から愛用している腕時計を修理に出しているのもあり、今は時間にいつもより鈍感になっているのかもしれない。  もう5時過ぎの夕方である。村上春樹の登場人物なら、聞いている音楽はレコードだし、ここらあたりでクラッカーとウイスキーが出てくるのだろうが、あいにくそんな気配はない。騎士団長殺し、個人的には海辺のカフカ1Q84が混ざった印象を受けた。続編を待つ。

 

 

  久しぶりに何にも考えずにのんびり出来た気がする。いい一日だった。まだ夕方だけど。

 

 

 

"少年は大志を抱きすぎて死んだ  そして生まれ変わるのさ  青春の向こう側で  いつか待ち合わせをしよう  恋すらも忘れるほどに  ヤバい速度でぶっ飛ばしたい"

幸福論

  一昨日は徹夜で部屋の掃除もとい断捨離をした。めちゃくちゃ捨てた。受験関連のものも入学当初のものも。最後のほうは今まで使っていた100均の筆箱も捨ててた。何か大事なものも捨てたかもしれぬ。朝日があたるすっきりとした部屋を見ると、得もしれぬ達成感を得た。

 

  と、その後昨日帰省して今に至るわけである。(ここまで書いていた)

 

  本当は、祖父のお見舞いに行った話とその時思ったこと、久しぶりにゆっくり実家に帰ってきて今思うこと、姉妹で歩いていて私が妹に見られた話、など書きたいことは山々だが、需要もないであろう。

 

 

  ただ今私が思うのはただ一つである。

 

  赤ちゃんは可愛い。

 

 

 

  これだけである。いや少子化とかちょっとよくわからない。あんなに可愛いのに???なんで???実際問題、育てるとなれば、それはそれは苦労するであろう。でも泣いても笑っても可愛い。

 

  本当は明日帰る予定だったが、一日滞在を延長して、明日は赤ちゃんを愛でに行くことにした。メロメロである。祖父となった従兄弟の父も相当だが、私も相当メロメロである。布に包まれて赤ちゃんの姿がまったく見えない、その布まで可愛く見えてきた。二人でメロメロ同盟を組む一歩手前だ。

 

  可愛いは正義。赤ちゃんの可愛さを伝えたいが、ここに記すには余白が狭すぎる。

 

 

 

 

 

追記:幸福論は、出産後子供が数々の重病を患い、人の比じゃなく子育てが大変だった母が子育て中に聞いていた曲らしい。某SNSによって思い出したのも、初めて赤ちゃんを見て触れたのも今日であったのでなんだか不思議な縁を感じた。

 

"君が其処で生きてるという真実だけで幸福なのです"

 

転がる岩、君に朝が降る

  今週末もブックオフタワレコと鴨川を巡り歩いてきた。

 

  4月は、とりあえず真面目に大学の勉強に取り組みながら今まで使えなかったお金と時間を自分の好きなことに費やそうと決めていて、実際そうしてきた。ところがどっこい、充実するどころかなんだか無になる。いや、ある意味では充実している、好き勝手にしているのだから。だけどふとした時に無に還る。別に好きなことをしたからといって、運命的に何かに目覚めてその道まっしぐら...!!みたいな出会いがあるとは思っていたわけではない。(どこか心の隅でそんなことを望んでいたのは確かかもしれないが。)ぼやっ〜とふにゃっとした日々を過ごしている。

 

  思い返せば忙しい忙しい、と言いながら何かに熱中していたほうがやっぱりいきいきしていたと思う。急いて見つかるものでもないが、何か熱中できるものを見つけたい。

 

 

  私が好きな歌の歌詞に「死にたくないとか生きていけないとか 若き日によくこぼしたあの口癖は  いつの日か誰かの心を癒すでしょう  そしてまた新たに生きる喜びを知るのでしょう」という一節がある。そんなもんなのだろうか。

 

  見る限り、世の学生達皆がこのような空虚感を抱いているとも思えない。それとも皆こんなことを何処かで考えながらも日々を過ごしているのであろうか。

 

 

 

 

  今日もCDをたくさん買ってしまった。高校の時分も、食費を浮かせてCDを買ったり借りたりして夜な夜な聞いていた。まるで変わっていない。誰かと話したり声を聞きたいような、けれども一人で物思いにふけっていたほうが良さそうな。本や音楽はこんな時に寄り添ってくれる、私にとっての最高のツールである。虚無は消えても無だから何らかの形で満たさねばなくならないであろう。本や音楽はは満たすことはなくても浸らせてくれる。終わってしまうと現実に引き戻されるが、それでも何かは残してくれる。

 

 

 

  こんな駄文はあとから読むと恥ずかしく消してしまいたい衝動に駆られるとわかっていながら、のんべりだらりと書いてしまう。メンタルがヘラっているわけではない、と思う。感傷的なのも無駄に何かの一節を長々引用するのももともとだ。もともとめんどくさい奴である。もっとこう、締まった日本語を扱いたいものだ。

  4月はこんな感じだった。来月末には何らかの進展が見込めるような日を過ごしたい。

 

 

 

 

"理由もないのになんだか悲しい  泣けやしないから余計に救いがない  そんな夜を温めるように歌うんだ"

魔法のコトバ

  朝から1時間以上散歩に出かけてしまったが、その後は家でほとんど大掃除をしていた。途中、雷、ゲリラ豪雨そして雨上がりの晴天、と外の様子が変化して家の中にいても退屈しない日であった。

 

  まだ完璧に片付いたわけではだいぶものを捨てた。優柔不断な自分であるが、捨てるときは捨てるのだ。捨てた量を見て自分でびっくりした。何か大事なものまで捨てている気がする。

 

 

 

  掃除をしていると不思議な気持ちになる。確かに買ったときには欲しくて堪らなかったり必要だったりしたはずなのに、今はただスペースをとるものと化している。この変化は何だろうか。これは理解されないかもしれないが、どことなく自分の感覚として消しゴムに似ていると思った。消すために産み出され自らを削ることで使命を全うする消しゴム。いるはずだったものを捨てていく行為は、ふとその意味を考えてみるとなかなかおもしろい。しかし、そんなことを考え始めると手が止まるので、その思考は停止してせっせと掃除をしていた。

 

 

 

  まあそうやって一日を消費していたわけだが、17時過ぎにとても嬉しいことがあった。取り立てて言うようなことでもないのだが、やっぱり相手が違うと抱く嬉しさもひとしおである。何年ぶりであっただろうか、優に2年以上経っていた気がする。不意打ちだったのもあわせて、喜びで昇天しそうだった。

  歯の奥にものが詰まったような物言いで申し訳ない。割とプライベートなことなので事細かには記したくないが、日記という体裁をとめている上はこの喜びはぜひここに記しておきたいと思ったのだ。

 

 

 

  とりあえず、この一件を通じて実家に帰ったら自室と家のCDの枚数を数えようと心に決めた。ここでもその結果を記すかもしれない。ただ、そんな数日後に思いをはせるより、今はまず目の前の掃除を終わらせねば。遅くとも5月までには終わらせたい。るんるん気分のうちに。

 

  というわけで今日はこの辺りでやめて、また大掃除に戻るとする。

 

 

 

 

"魔法のコトバ  二人だけにはわかる  夢見るとかそんな暇もないこの頃  思い出して おかしくて嬉しくて また会えるよ約束しなくても"

床には君のカーディガン

  今日から9連休である。自分の通っている大学はGWはいつも長い休みになる。去年はこの時にブックオフで参考書類を買いはじめた気がする。何もすることがないものには退屈な休みである。

 

  3日から帰省予定なので、それまで何をしようか、ここ最近はわくわく妄想していた。残念ながら金銭面に一抹の翳りがあるので、遠出は出来ないのだが。街中に出て寺を巡ってどこかで昼を食べ抹茶の何かを飲んで一息つくのもいいかもしれない。古本屋さんをはしごするのも楽しそうだし、鴨川沿いを歩いて気が向いたら土手で本を読むのもいいかもしれない。規模が小さすぎる?でも授業がある日にはのんびり出来ないことである。一日中好きに使えるとはなんと素晴らしいことだろうか。

 

 

  と、思っていたのだがやっぱり現実はうまくいかない。連休だから、とのことで課題がてんこ盛りになってしまった。いや、それは課題はたくさん出るだろうと踏んでいたが。3日以降はやりたくないので今のうちにすませておきたい。あと、部屋の掃除もしたい。いつも掃除はしているのだが、気分転換も兼ねて大掃除でもしようと思う。いつもだとなかなかキリが悪くなって終わらず結局よくわからないところで切り上げてしまうのだ。ここに書くことで有言実行の有言の段階を終え、あとは実行のみになったのでやれそうだ。

 

  週末は課題と大掃除で潰れるが、5月からはすっきりした心持ちで何か休暇があるときならではのことをしたい。

  今日はふりかえるような一日ではなく、なんだか微妙な文章だがここら辺りで終わりとする。

 

  それでは、また明日。

We love Tank-top

  私は毎朝ちょっとだけ悩むことがある。さて、何の服を着ようか、と。

 

  大学生になったら制服がないので、毎日自分で服を決めて着て行かなければならない。しかも下宿生なので完全に自分の見立てである。つい少し前まで、平日は毎日同じ制服を着て学校に行っていたのにいきなり毎日私服とは。時々週末に遊びに出掛けたり、遠足に出掛けたりする時でさえ、何を着て行こうかと散々迷っていた。挙げ句の果てには、これなかなかおもしろいよね?!と、半ばネタのようにストライプのスカートにボーダーのシャツを着て出掛けていこうとして、慌てて母親に着替えさせられたような私である。さすがにこれは何年か前の話であるが。

 

  身長が変わらないので、なかなか着れなくなる服もなく服の新陳代謝も多分人より悪い。未だに中学時代の服も着れてしまう。ふらふらと歩くウィンドウショッピングは割と好きである。しかしいざ買うとなると、うーん、これだけあれば一週間過ごせるしCD一枚分かぁ...などと考えはじめ、そんなことを考える間もないくらい気に入ったものか、必要に迫っている時以外買うことは少ない。

 

  夏はまだいい。自分のバンドTシャツコレクションから一枚適当に選び下に履くものを合わせればなんかいい感じになる。(私目線で)洗濯も楽チン。しかし他の季節は割と困る。特に今のような朝は寒くて昼は暑いような時。見た目+体温調節となるとなかなか難しい。あまりに同じ服ばかり着回すようなことも、気づける範囲でしたくない。

 

  しかも結局すべて自分の見立てだから一切自信がもてない。今日は白衣を着るときに、痩せたブルゾンちえみっぽいなんかデキる女って感じの服じゃね!なーんて言われてしまった。確かに、今日は実験だし気合いを入れて割とかっちりした服を着ていたが、動いているブルゾンちえみを見たことがないのでよくわからない。どうなんだ。

 

  We love Tank-topとTank-top of the worldを聞いて、もう袖を引き裂いてタンクトップにしようかぁぁあ!なんて思うけれどそんなことはしない。(ちなみに、この2曲を歌ってるヤバいTシャツ屋さんというアーティスト、なかなかはちゃめちゃで最高なので最近イチオシである。)素朴ででもなんとなーくいい感じに小洒落てたいが、そういうのが一番難しいのだ。明日も頭を悩ませながら着替えるのだろうなぁ、と今から思っている。

 

 

 

 

 

 

"「そんなことないさ、ほら君もタンクトップを着るんだ!すぐにタンクトップワールドの一員さ!」"

Alternative Plans

  人生は選択の連なりである、と近頃何処かで聞いた、いや見た気がする。まったくその通りだと思う。今日の昼ごはんを食べる場所、そして食べるものにから進路まで、などなど選択の積み重ねである。

 

 

 

  もう思い返すこともほとんどなかったが、私はもともとは文学部に行きたかったことを思い出した。人一倍早くに中二病になり、罪と罰にはじまりいわゆる文豪と言われる人たちの本をこっそりと読んでは、人生について思い悩んでいた。日本の文学、加えて西欧の文学にも興味があった。そしてその頃は本気でライターになろうと考えていた。そのまま高校生になり、部活後に雑誌を立ち読みするかCDを中古で借りるか買うかして家に帰り、こそこそと批評を書いては直し書いては隠し、を繰り返していた。

 

  進路選択のときは忘れもしない。予備調査では2回とも文系で提出した。成績を見ても文系科目が良く理系科目が悪かったので、文系に進むのは至極当然だと思ったし、周りもそう思っていた。ところが、本調査提出の夜である。もうこれで文理が決まると思うと急に迷ってきた。本当にこれでいいのだろうか?と。調べてみたが、ライターは文理どちらの出身もいる。あんまり関係なさそうだ。その頃にはSEにも研究職にも興味が湧き始めていた。本当にこれでいいのか?散々悩んで夜を明かし、結局こっそり理系に変えて提出した。担任と母親には驚かれ呼び出しも食らったが、何故か父親は理系に進んで欲しかったらしく、喜んでいた。なんだか漫画みたいだが、これが私が理系を選んだ時である。

  こんなことするのは自分だけだろう、と思っていたが、なんと小学校から11年間クラスが同じだった幼馴染も同じことをしていた。一緒に文系だね!なんて言っていたのにお互い一言も言わずに突然変えて、しかもそれが同じだったのだから本当に笑ってしまった。

 

  そんなこんなで今理系に進んでいる訳だが、まったく後悔はしていない。むしろ文系だと私は大学のその先はどうしていたのだろうか、全然思い描けない。今だって大したビジョンがあるわけでもないが。

  何故あの時急に変えたのかよく分からないが、自分は趣味と仕事を一緒に出来ない性分だとなんとなく気付き始めていてブレーキをかけたのかもしれないな、と思う。歳はとったが未だに苦手なアーティストには適切な評価が下せないし、好きなアーティストには過剰に反応してしまうのだ。

 

 

  選ばなかった選択肢は時に輝かしくなる。もしあちらを選んでいれば、とは何度も思うがそちらを進んでどうなっていたのかもわからない。良かったかもしれないし、思いがけぬ落とし穴でもっと悪くなっていたかもしれない。選んだ選択肢がどうなるか、それもこれから次第である。選んだ選択肢がどうであるかよりこれで良かったとこの先で言えるように日々を歩んでいかなければならないのかもしれぬ。そう、この選択を生かすも殺すも自分次第なのかもしれぬ。

  と、ここまで大真面目に山盛りのフライドポテトを前に考えた。昼ごはんを食べていなかったので、14時からの限定のメニューを頼んでみたのだ。いつもこの時間は授業を受けているので食べたことがなく、何だろうかとワクワクしていたらなんとバーガーと共に大量のフライドポテトが。いやいや、これは選択ミスだったかもしれぬ。おいしかったけれども。

 

 

 

 

"Dreaming of the day We have some alternative plans  Like holding hands And staring up And couting little stars Smart enough to know It's sort of just a little joke I'm sorry I never meant to be like this"